<89> #7

2010-01-12 18:59:27

関係性の中の「わたし」③あいづち(その2)

テーマ:エビデンスとしての日本語
<英語以外の外国語のあいづち覚え書き>
私の経験上、あいづちが極めて少ないのはマレーシアの人である。あいづちについて意識する前は、「私の話を理解できていないのかな?」とか、「私に何か不満でもあるのだろうか?」などと思ったものだが、あいづちについて聞いてみると、マレーシアでは人の話は黙って聞くのがマナーのようなのだ。それを聞き、それまでどうも合点の行かなかったマレーシアの学生の態度にも納得した次第。

その点、中国や台湾、韓国、タイなどの学生に対しては、それほどの違和感を感じたことがない。言われてみれば、電話の時の反応のなさには戸惑うことがあるかな…という程度。

留学生の中には日本人以上に上手にあいづちを打ってくれ、むしろ日本人よりも話しやすいという場合もあるくらいだ。台湾の人にはあいづちがうまい人が多い気がする。そんな感想を台湾出身のKさんにぶつけてみると、「日本語の会話スタイルとして身につけたものです。母語の時はそれほどあいづちを打つわけではありません。」と答えてくれた。
なるほどです。


以下、主に『日本語学』のあいづち特集号に載った、英語以外の外国語のあいづちについての言及についてまとめておく。

<中国語のあいづち>
資料を電話での会話に限定し、言語表現によるあいづちを対象とした劉(1987)の調査によると、日本人は中国人の約1.6倍の頻度であいづちを打つという結果が出ている。

水野(1988)は、メイナードによる米会話の調査結果を参照した上で、「大まかな傾向として中国語のあいづちの頻度は日本語とアメリカ英語のあいづちの頻度の中間に位置すると考えてよいだろうと思う。」と述べている。

日本語のあいづちは、「はい」、「ええ」、「うん」、「そう」というように、いっぽうで同意や肯定を表わす表現が用いられることが特徴であるが、最もあいづちらしいものとして「はい」「うん」「ええ」と対比される中国語の「啊」「嗯」には同意や肯定の機能はないそうである。
なお、「嗯」は「うん」に近い発音になるそうだが、日本語の「うん」が待遇的な意味を含み目上の相手には使い難いという制限があるのに対して、中国語の場合、「啊」にしても「嗯」にしてもそのような制限はなく、だれに対しても使えるとのことである。

<タイ語のあいづち>
宮本・マラシー(1988)は次のように述べている(適宜改行した)。
***
民謡や漫才の合いの手の言動等のようにあいづちを様々な形で、かつ打つ頻度も高い日本人と比べたら、タイ人はあいづちを打つ回数が少ないと言えるだろう。
日本での生活が長い私は、国際電話でタイ人と話す時、互いの声がはっきり聞こえていても、相手は黙って私の話を聞くだけなので、私の声が聞こえているかどうか、話を理解してくれているかどうか不安になり、しょっちゅう「聞こえますか」や「分かりますか」、時には、相手が私の話を分からないと勝手に思い、同じことを繰り返し言うこともしばしばある。
そして、最近、タイ人と話す時でも、頻繁にあいづちを打つ自分に気が付くことがある。日本人のあいづちの打ち方に馴れ、身に付いてしまったのである。
***

<インドネシア語のあいづち>
正保(1988)によると、インドネシア語でも日本語の「はい」などと同様に、肯定の意味を表わすことばがあいづちとしても用いられると言う(ya)。なお、タイ語も肯定辞があいづちとして用いられることがあるそうである(宮本1988)。

<フランス語におけるあいづち>
フランス・ドルヌ(1988)は、ことばを使ったあいづちについて、「日本語とフランス語を比較すると、前者の方がその頻度ははるかに高いようである。」と述べている。
ドルヌは、肯定辞「oui」はあいづちとして用いられることがあるとしつつ、「oui」は日本語の「はい」「ええ」とは違って後続文に肯定的な内容を導くという「統辞論的な特徴」が色濃く保存されているとする。そしてその結果として、「単に『聞いている』という意味でのあいづちは言葉ではなく、むしろ控え目に頷いたり、目を瞑ったりという仕草によってなされるのが普通」なのではないかとしている。

<韓国語のあいづち>
生越(1988)は、韓国では年上(目上)の人の話は黙って聞くのが礼儀であるため、目上の人との会話ではあいづちが少なくなるが、そのほかのケースでは日本と大差ないのではないかと述べている。

あいづちに用いられる言語表現としては、日本語と同様肯定を表わす返答詞が用いられ、日本語の「はい」「ええ」「うん」と同様の待遇差に対応するバリエーションも存在するという。

いっぽう、韓国人のホンミンピョや、韓国在住十数年に及ぶ齊藤明美は、目上に対する時だけではなく、一般に日本人のほうがあいづちを多用すると述べている。

文法的に韓国語は日本語と共通する点を多く持つ言語である(語順・助詞・敬語・3系列の指示詞等々)が、あいづちにおいても近いところを持つようだ。しかし一方で、韓国語は(日本語のような相対敬語ではなく)絶対敬語であったり、「あげる・くれる」の区別を持たなかったり、「相手との関係性」という側面をより色濃く持つのは、日本語のほうといえる。
そのような傾向の一つの表れとして、あいづちにおいても、似たところはあるものの、日本語のほうがより頻度が高いということがあるのかもしれない。

ちなみに、PTAについても、韓国には、まったく同じとはいえないまでも日本のPTAに近い性質をもつものがあるようだ。この点については、できるだけ早く「留学生に聞くPTA」シリーズでご報告したいと思っています。


(参照文献)
生越直樹「朝鮮語のあいづち-韓国人学生のレポートより-」
水野義道「中国語のあいづち」
宮本・マラシー「タイ語のあいづち」
正保勇「インドネシア語のあいづち」
フランス・ドルヌ「フランス語におけるあいづちの機能」
以上、『日本語学』(1988.12)に掲載。
齊藤明美(2005)『ことばと文化の日韓比較』世界思想社
劉建華(1987)「電話でのアイヅチ頻度の中日比較」『言語』16-12
ホン ミンヒョ(2007)『日韓の言語文化の理解』風間書房





 ■うむむ・・
「でしょ!」を多用する私ですが・・
宗教との関連について、大変興味を持ちました。
血液型などはどうなのか・・・これも興味があります。
お邪魔しました。

2 ■Re:うむむ・・
>PTAのあり方とは・・さん
宗教との関わりは、いずれとりあげたいなと思います。
見込みとしては、一神教か否かが関わるのではないかと思っています。
そして、「個」の論理のデカルト流哲学と、「場」の論理の西田哲学の違いも絡んでくるのではないかと。

PTA関連もぼちぼち再開せねばと思っているところです(汗)。
コメント、ありがとうございます。

3 ■「場」の論理について
コメントにかこつけて、語らせていただきますね^_^;

一神教的な論理は神(=主体)が世界を創るというものであり、神の似姿である人間(自己)もまた世界に働きかけ世界を創る<主格>としてイメージされます。

いっぽう、日本的な宗教感覚は、世界を創るものとして特定の主体を析出しようとはしません。世界は創られるものではなく、「なる(=出来する)」ものとしてイメージされます。
そのような価値観の下では、人間(自己)もまた世界に働きかけ、世界を創る<主格>としてではなく、そこで何かが「なる」<場所>としてイメージされる。
※北関東の某教育委員氏が繰り返し繰り返し語る、「半強制的に参加させられたことで「わたし」は素敵な「わたし」になれた。だから、半強制的な参加はありだ」といったロジックは、まさに<場所としての「わたし」>の主張だと思われます。

「わたし」は<場所>にすぎないから、責任を取れ!と言われても困ってしまうし、「わたし」は<場所>にすぎないから踏みつけにされてもいいし(かえって成長できる!)、他人の「わたし」を踏みつけにしてもあまり良心が痛まない…。

日本のPTAにおいて、校長や教育委員会や文科省が非常に無責任な態度をとること、また、PTAが人権は大切だと口先で叫びつつ、下半身において人権を踏みつけにして平気でいること、学校当局とPTAとの境界があいまいであること等の背景には、日本文化における、人間(自己)についてのセルフイメージの問題があるような気がしてなりません。

この論点をこれから少しずつ展開していければなと思っています。
<関係性の中の「わたし」>に一区切り付きましたら、<場所としての「わたし」>(=主格性の希薄さ)を言語学的に探っていきたいと思っています。

4 ■Re:「場」の論理について
>まるおさん
なるほど、とうなずきつつ御記事拝読しました。
>日本文化における、人間(自己)についてのセルフイメージの問題
についてのご考察、刮目してお待ちしております♪

5 ■Re:Re:「場」の論理について
>猫紫紺さん
説明抜きの言いっぱなしをご理解いただき、ありがとうございます。
励みになります。
できるだけ早く、「日本文化における、人間(自己)についてのセルフイメージの問題」にまで辿りつけるよう、精進したいと思います。

6 ■一神教であるキリスト教の理解の助けとして
『キリスト教は邪教です!-現代語訳「アンチクリスト」』
ニーチェ:著、適菜収:訳、講談社+α新書、
2005年
おすすめします。
とてもわかりやすく、刺激的です。
恥ずかしながら、拙ブログでの書評を紹介します。
http://blog.goo.ne.jp/yamyam00/s/%C5%AC%BA%DA

また、夫の受け売りで失礼しますが、日本には、「マリア観音」という観音様があるとききました。
古代、天津神が国津神を征服し神社に祀り、仏教をとりこんで、密教をとりこんで、キリスト教をとりこんで、明治に神道と仏教の分離をはかった事実があります。日本の「神」観は、…全てをとりこんでしまう、なにやら得体の知れない曖昧模糊としたものを感じております。

7 ■Re:一神教であるキリスト教の理解の助けとして
>猫紫紺さん
御書評、読ませていただきました。
おもしろそうですね!
一神教を相対化するためにも、読んでみたいと思います。
ありがとうございます。
と同時に、日本教の「邪教」性(負の側面)についていっそう考えていければと思います。

>日本の「神」観は、…全てをとりこんでしまう、なにやら得体の知れない曖昧模糊としたものを感じております。
そうですね。
そこにも、有志もそうでない人も呑み込んでしまう、日本的なるものの、母性性というか、「場所」性が認められそうですね。