<134> #6

2010-06-12 18:07:27

「恩」をめぐって(その2) 恩の返される場所

テーマ:日本人論
(加筆しました。6.13,15:00)
なぜ日本人にとって恩は重いものなのか? 恩を返さないとなぜ「恩知らず」だとか「ただ乗り」だとかと非難されるのか?
なぜ、日本における愛や親切は、ヒモ付きになってしまうのだろうか?

この問題を考える上で、貴重なヒントを与えてくれるのが、中根千枝氏の考察。
中根氏と言えば、『タテ社会の人間関係』が特に知られているが、その続編とも言うべき、『タテ社会の力学』、『適応の条件』も『人間関係』に勝るとも劣らぬ名著だと思う(いずれも講談社現代新書)。

今回ご紹介したいのは、『適応の条件』第二部「日本の国際化をはばむもの(社会学的諸要因)」中の「5義理人情の分析」の部分で述べられていること。


<義理とは>
中根氏の議論は、義理をめぐってなされる。
ちなみに、(その1)でとりあげたルース・ベネディクトは、義理について、「これまで文化人類学者は、世界の文化の中で風変わりな道徳的責務の体系をいくつか発見してきた。その中でも、義理ほど異色なものは稀である。」と述べている(光文社版p.213)。

中根氏は、義理に関してつぎのように述べる。

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特定の二者間において、一方から他方にもの(原文傍点。以下、同じ)が与えられたということがすべて義理という関係を設定するとは限らない。よく考えてみると、AがBにものを与えるという当然の義務がなく、またBにそれを受ける当然の権利がなく、たまたまAがBに与えたものがBにとって非常にプラスであり、その重要性が第三者にも充分認識できるほどの意味をもつという条件に支えられたとき、義理という表現による人間関係が設定されるといえよう。(149~150)
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そして、ものや行為のやりとりの中で、日本人は義理にしばりつけられるのに対して、インド人やイタリア人はそのようなことはないとする。
その違いはどこから生まれるのか。


<違いの背景①-義理が形成される条件>
中根氏は、「いかなる社会においても、一定のものが個人(あるいは団体)から他の個人(あるいは団体)に与えられるということが社会学的な意味をもつものであることは、レヴィ=ストロースをはじめ多くの社会人類学者の研究により明らかにされてきたところなのに、なぜそのような行為は必ずしも義理という概念を伴わないのか?」(要約) と問う。(151)

そして、義理が形成される条件を問題にする。
そして、義理を形成する条件として析出されるのが、「返却の困難さ」だ。

与える者と与えられる者の二者の間に力の差があり、そのひとつの帰結として、施しを受ける下位者が返却の困難さをもつとき、そこに「負い目、すなわち義理」が生ずると氏は言う。

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返却があらゆる意味で容易な場合は、「義理がある」などといっても、それは返却の困難な場合ほど深刻な関係を結果しないのである。このような次元の「義理」ならばどのような社会においても存在するものである。
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同僚が缶コーヒーを買うついでに自分の分も買ってきてくれたとする。そのような場合における、「次はこっちがお返ししなくちゃな」という程度の負い目までを「義理」と言うなら、それはどの社会においてもあるというわけだ。


さて、ここで問題になるのは、では、日本以外の社会で、二者の間に力関係の差があり、上位者から下位者に対して施しがなされる場合、そこに義理、つまり「返却しなくてはならぬのに容易には返却できないという負い目」は生じないのか?ということだ。

中根氏は、それは生じないと言う。
氏は、日本とは違って、「義理の生じない社会」があるというのだ。
それは、どのような仕組みにおいてか?


<違いの背景②-義理の生じない社会の条件>
義理の生じない条件として、氏は二つのことを指摘する。
ひとつは、施しを当然のこととするコンセンサスの存在。もうひとつは、もののやりとりが二者間で完結しないシステムの存在だ。

(コンセンサスの存在)
義理の生じない社会では(インドの例が特に取り上げられている)、力の差、貧富の差を認め、もてる者がもたざる者に施しを与えるのは当然というコンセンサスがあるという。

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YがXからものをもらっても何ら義理を生じないのは、YにとってXはより「もてる者」であるから当然のこととして受け取るからである。いかなる意味でも返却などということは社会的に強制されないのである。このシステムでは「よくしてやった」とか「ものをやった」という行為は、Xに何のリターンを意味しないのである。
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いっぽう、日本において義理が発生するのは、日本人は基本的なスタンスとして差を認めようとせず、たとえ貧富の差等があろうとも、お互いに「同等、同位」であることを大前提としているためであるというわけである。


(システムの存在)
義理が生じない社会にはもうひとつ日本にはないものがあるという。それが先にも少しふれた、「もののやりとりが二者間で完結しないシステム」の存在だ。

中根氏は、もののやりとりのパタンを大きく二種類に分ける。

ひとつは、Xから何かを与えられたYがそのお返しをXにするというもの(これをここではα方式と呼んでおく)。
我々日本人にとてもなじみ深いお返しのやり方だ。

「自分の子どもが学校のお世話になっているのだから、また他の保護者のお世話になっているのだから、どのような事情があろうともPTA活動に参加するのは当然」という、PTA全員参加体制の背後に頑として存在する考え方は、ここで指摘されている、「お互いに『同等、同意』であることを大前提とする」スタンスと、与えられたものは与えた人に返すべきとするα方式の非常に分かりやすい現われと言えるだろう。


そしてもう一つのやり方が、Xから何かを与えられたYがそのお返しをX以外の者に対して行うというもの(β方式と呼ぶことにする)。

β方式は、ふたつに分けられる。ひとつは、もてる者からもたざる者へと施しが与えられていくという場合(かりにβ‐1とする)。もうひとつは、成員の同等性を前提として、Xから与えられたYはXには返さずZに施すが、XはそのZから施しを受けるというような場合(かりにβ‐2とする)。この後者の場合は、直接的な互酬ではなくても、めぐりめぐって誰もが誰かから施しを受けるというシステムだ。


中根氏は、日本社会ではα方式が支配的であるが、他の諸社会では、α方式も存在するものの、β方式が相当強く機能しているとし、β方式はインドや英国をはじめとして、さまざまな国に見られると指摘する。(156)

氏は、英国滞在中に一方ならぬお世話になった相手に「どうしてお礼申し上げていいかわかりません」と恐縮すると、よく「そんなことは気になさらないでください。日本にお帰りになって、もしイギリス人の学者に会われたとき、できたらその方に、私があなたにしたようになさってくださればいいのです」(157)と言われたと、自らの体験を披歴する。

そして次のように述べる。

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一対一で完結しないで、より大きなシステムでバランス・アップしていくというこの考え方は、非常に個人をフリーにするものである。特にその時点における弱者 ― ものを与えられたほう ― に気持ちの余裕を与えるものである(とにかくひどく相手に義理を感じないですむのである)。(157)
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ところで、インターエデュ掲示板において、次のようなやり取りがあった。

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もしフルタイムで私がはたらいていて、とても余裕がなかったら、現行の枠組みのまま、何とかできる形を探る努力をするでしょう。
そして親睦会を土日や夜にしてもらい、その係になるなどして、ふだんの疎遠を取り戻すべき努力をするでしょう。
キーパーソンに相談するかもしれません。
なんらかして子供のために「関わり」を持とうとすると思います。
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と述べるのは「元改革派副会長」氏。それに対して、「↑」さんが次のように述べている。

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子供のため、ひいては社会とのつながりをどのように規定するかは、人それぞれのやり方に任せるべきです。

PTAという枠組みの中で地域貢献するやり方もあるでしょう。
たっぷり働いて、たっぷり納税するという方法もあるでしょうし、自分の得意分野でその技術を生かし社会に貢献する方法もあります。

現行PTAの枠組みではもう多様な社会に対応できなくなっているわけです。

個々人の事情があり、個々人の能力に応じて、個々人が良いと思った方法で社会に貢献すればよいのです。

「強制」という土壌は軋轢しか生みませんから。
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「↑」さんの発言は、β(‐2)方式に立つものとして注目される。


<まとめと次の課題>
以上の中根氏の考察を踏まえると、日本において、愛や親切がヒモ付きとなり、施しを受けたものの負い目となってしまうのは、①もてる者がもたざる者に与えることは当然というコンセンサスがないこと、②相互扶助(助け合い)が社会的・公共的な広がりをもたず、一対一で完結した内閉的なものになりがちである(狭義の「互助」性が強く、「公助」性が弱い)ことが背景にあると考えられる。


次回は、この義理を形成するものと「タテ社会」とのつながり、義理の問題ともてる者Xによるもたざる者Yに対する支配関係(親分・子分、庇護と被庇護の関係)成立との関連を紹介、考察したい。





1 ■β方式を教えてくれた人
面白いお話をありがとうございます!!

知り合いで70歳くらいの女性がいるのですが、その人が、よくβ方式の言い方をしてくれます。周囲の若者に、なにくれとなく世話をしてくれて、何かお返しをしたいと申し出ると、
「あなた方も齢をとったら、若い人を世話しておあげなさい、私もそれがお返しだと思うから」
と言われます。素敵な教えだなーと思っていたのですが、

その方、長らく海外で暮らしていた人なのです。そうか、だからなのかも~と、今、合点がいきました!

ときどき、「最近の日本人は公共の考え方が薄れている」みたいな言論を聞きますが、もともと「公共」の考え方が、β方式の文化と違うのかもしれませんね。 (っていうか、非常に狭いのね、そんなの「公共」って言う?みたいな気分です)

2 ■Re:β方式を教えてくれた人
>TRKさん
>ときどき、「最近の日本人は公共の考え方が薄れている」みたいな言論を聞きますが、もともと「公共」の考え方が、β方式の文化と違うのかもしれませんね。 
(っていうか、非常に狭いのね、そんなの「公共」って言う?みたいな気分です)

新政権では、「新しい公共」ということが言われているようですが、助け合いが内閉的なものになるのか(α方式)、社会に開かれたものになるのか(β方式)。ここは、注目ポイントだと思っています。

現状のPTAは、まさにα方式に立つ「内閉的な公共」だと思いますが、私もやってあげているのだから、あなたもやって当然という態度は、ほんとうに個人を追い詰めますよね。

なら、余計なことはしないでくれ!であります。
http://ameblo.jp/maruo-jp/entry-10173701598.html

ところで、御ブログでの「母と娘」の話(『ユリイカ2008年12月号 特集=母と娘の物語 母/娘という呪い』)
http://blog.goo.ne.jp/trk201001/e/8de2f5c3172e9b3da24c3969efa35cb5
と、
学級の話(学級が崩壊したら困るのは誰)
http://blog.goo.ne.jp/trk201001/e/7dab69b546fe43ab35c5bab9d5764c69
とても勉強になりました。

「学級」のありかたも、問題ですね。
恥の文化の源は、日本の子育てのありかたにあり、とするベネディクトの考えに通じると思いました(『菊と刀』12章「子どもは学ぶ」)。

3 ■β方式いいですね
 β方式、いいですね。
 亜流の解釈では、親から受けた恩を子に返す、という感じでしょうか??でも本来のβ方式は、もっと懐が深いです!

 御記事拝読して連想したのは、ご近所づきあいでのもののやりとりの大変さ。
 やれ、お裾分けだの、おみやげだのと、ものを下さるお隣さんがいらっしゃるのです。わたしなんかは、有り難くいただいて返せるときに気の利いたものが返せればいいや、なんて気楽に考えているのですが・・。70代半ばの主人の母は違います。お隣さんとの対面では、嬉しそうにもらっておいて(礼儀ですからむろんですが)、あとで、「困ったわ~」と渋い顔をするのです。

 この謎が、なんとなく、理解できるような気がしました。

4 ■Re:β方式いいですね
>猫紫紺さん
ちょうど昨日、留学生から、「隣のおばさんがものをくれたので、国に帰った時にちょっとしたものを買ってきてお返しをしたら、また何かをくれ、で、こちらもまた何かの折にお返しをしたら、また何かくれて…。え~、これいつ終わるの?と、もう疲れてしまいました。」てな話を聞いたところでした。

私の実家は三重なのですが、実家からの中元などのお裾分けでもめたことがあります。
家内の気持ちとしては、そんなもので頭が上がらなくなるのはごめんだ!というものだったと思います。
せっかく送ってくれるものをなんでそこまでこだわるかな??というのが当時の私の気持でしたが、今思えば、α方式による「支配-被支配の関係性」の中に入ることへの抵抗感だったのかなと思っています。
で、結局、実家からのお裾分けは廃止されました。
その点、弟の家はうまくやっているようですが。


PTA問題では意気投合しても、実家問題は今でもなかなか難しいです^^;。

5 ■今まさに
仕事上のお客さんにスイカ(=小玉ではなく、普通のスイカ) を3玉も持ち込まれてしまい、超ブルーになっています・・・と、愚痴ってみたり。

6 ■Re:今まさに
>TRKさん
普通サイズのスイカ3玉とは豪勢な(笑)。

う~ん、恩に「無頓着」を自任するTRKさんをもってしても、さすがに重いですか^^;