<155> #16

2010-08-23 00:30:25

『人間形成の日米比較 かくされたカリキュラム』 ― PTA問題を読み解くヒント(+考察篇)

テーマ:日本人論
今回は、恒吉僚子『人間形成の日米比較 かくされたカリキュラム』(中公新書)をとりあげたい。
そこで語られている、人間形成のあり方の日本的な特徴が、PTA問題を読み解くうえで参考になると思うからだ。

著者の恒吉氏は、アメリカで生まれ、三年保育は日本、幼稚園から小学校5年生まではアメリカ、中学・高校・大学は日本、そして大学院はまたアメリカと、「渡り鳥のように太平洋を往復しながら、カルチャーショック、逆カルチャーショックを交互に経験してきた(p.167)」という人。
その実体験と、日米の小学校で四年生を中心に各一カ月弱おこなった観察調査(この他に日米小学校八校での予備観察も行われている)をもとに、日米における「人間形成」のあり方の興味深い違いが指摘されている。


<小集団による相互規制の利用 ―「背後からの誘導」>
アメリカの小学校と比べて浮かび上がる日本の小学校の特徴としては、次のようなものがあるとされる。

**(引用)**
 簡略化すれば、アメリカの小学校では教師が個人リーダーとして、自ら指示を下して児童を率いていく仕組みであるのに対し、日本では教師が集団による役割分担と児童相互の規制を利用しつつ、直接統治と間接統治を併用する形になっている。一定期間固定された班などの小集団の中での児童相互の規制が奨励され、教師は背後からそれを誘導するのである。
 一方、授業外の小集団活動が発達していないアメリカの場合、児童は担任教師を初めとする教職員の、「上から下」への指示に直接、従う形となる。(p.75)
*********

「集団による役割分担と児童相互の規制」のために用意されるのが、日本人にはなじみ深い「係」活動、「班」活動、「クラスでの児童同士の話し合い(朝の会・帰りの会等)」等であるという。
著者によると、このような「小集団」的なものはアメリカの学校には基本的に存在しないようなのだ。つまり、アメリカではリーダーたる教師とひとりひとりの生徒が直接的に対峙する構造がより強い、と。

アメリカの教師は、「個人リーダー」として生徒一人一人を相手に、自らの権威あるいは説明による説得によって子どもたちを指導しようとする。
それに対して、日本の教師は、自らの存在を極力目立たせまいとして、「児童相互の集団規制を利用」することで間接的に子どもたちを指導しようとする。


「集団による役割分担と相互規制を利用しての背後からの誘導」って、まんまPTAに認められる構造じゃありませんか!


<自発的同調への誘導>
前項と関連することだが、もうひとつの日本の学校の特徴は、「自発的な同調」が重視される点だと言う。
日本の学校では、「掃除などでも、全員が協力して掃除した結果、教室がきれいになり、勉強しやすくなったと児童が感じて、『自発的に』協力【したくなる】(原文傍点)ように配慮すべきだというようなことが言われる(p.76)」。

「また、アメリカでは一般的でないような頻繁な学級での話し合いなどを通じて、教師の誘導のもとに児童たちが自分たちの目標を相談し、自分たち自身で決めた規則に“自発的に”従っていると彼らに感じさせるような配慮がなされている。(p.77)」

「日本の小学校がアメリカにくらべて『反省会』をしばしばカリキュラムに組み込んで自省を促すことは、アメリカの研究者によっても指摘されている。(p.77)」


しかし、はたして、日本の学校で重視されているのは、本当に「自発」なのだろうか?
日本の小学校で重視される「自主性」、「自発性」とは、真の自主、真の自発とは異なることも強調されている。

「自発的とは言うものの、自分が気が進まない活動には参加しなくてもよいというわけではないからである。日本の児童にとって、学校の集団活動に参加しないということは、健康上の理由でもない限り容易ではない。参加を拒めば、教師に説得され、他の児童に説得され、ついには、その子供は、クラスの話し合いの議題にさえなってしまうかもしれない。
 児童たちが自分たちで話し合い、『自発的』に遵守している規則であっても嫌ならば無視していいというわけではない。(p.78)」

例としてあげられている事例がたいへん興味深い。
放課後にドッジボールをしようと話し合いで決まったクラスで、ある女子が稽古事があって帰ろうとしたところ、「ずるーい」の大合唱が児童の間から沸き起こったそうである
「教師に聞くと、あくまでも自由参加だということだが、児童に聞くと、『放課後は、皆でドッジボールをすることに【なっている】』ということになるわけである。このような雰囲気の中では、心ならずとも、仲間に非難されるよりは同調しようという児童がいたとしても不思議ではない。(p.79)」

また、集団自治活動が日本では奨励されるが、その「自治」も真の自治とは言い難いという点も強調される。

運動会のスローガンを皆で考えようと言っても、子どもたちが本当に自由に考えられるわけではない。
「児童が提案する意見であるから、理論的には、どのような突拍子もない、大人から見て常識外れの提案が出てきてもよいはずである。児童たちが、『運動会は皆でさぼる日』、などという合意に達してもよさそうなものである。しかし、実際は、教師の誘導のもとで、児童が教師の意をくみ、大人が納得するような意見にまとまるのである。
 幼い子供相手に日本のこのような試みが機能するのは、大人の誘導のもとに、児童が教師が考えていることをくみ、クラスの意見、班の意見…、と気遣いながら、大人でも納得できるような提案を行う訓練がなされていることによると思われる。(p.123)」

う~ん、こうして訓練された子供が、その数十年後、文科省・教委・校長等の意をくみ、PTA活動にいそしみ、熱心に取り組まない者にたいしては「ずる~い」と感じてしまうような大人になるのだろうな・・。

確かに、子どもの側の「納得」を大切にする姿勢は必要だと思う。しかし、日本の教育に認められる”自発性の重視”には危ういものを感じるのだ。

そう。「自発的にすること」を強要する、という側面があることは否みがたいと思うのだ。
それは、主体性と公共性には鈍感で、いっぽう、教師の顔色やクラスの空気には敏感な子どもの多量生産につながるだろう。


子どもの納得を求める姿勢も大切であるが、集団による相互規制を利用し背後から誘導するのではなく、正々堂々と自らの指導内容を鍛え上げ、それを子どもに対して明示するという姿勢も必要ではないか。


これをPTA問題に当てはめるなら、官として、保護者・国民に求めたいことがあるなら、正々堂々とその「指導内容」を鍛え上げ、法令の形で示すべきだ。
で、それ以外のことに関しては、保護者・国民の自由意思に任すべきかと。



そのような点で、以下のような見方に強く賛同する。

<間接的な誘導に認められる問題点 ―「心理操作」>
「一般のアメリカの育児専門家たちの意見を聞いていると、罪悪感に訴えかけることは一種の「操作(manipulation)」であるという理解が目につく。つまり、真正面から親が自分が欲することを述べたり、なぜその行為を子供がしてはならないのかを説明すべきであるのに、背後から子供の心理操作をしているわけである。これは、『狡い』行為であり、子供の人間形成にとってよくないというのである。(p.155)」


もう一点PTAとの絡みで興味深い指摘がなされていますが(正しい手順、お作法の強調)、それについては、いずれ。





1 ■「考察」を追加しました
本日、8.28(土)、「考察」を追加しました。
お時間のあるときにお目通しいただければと思います。

2 ■小学校の授業参観で感じた違和感
今年、うちの子の小学校の授業参観で感じた違和感は、まさにコレだなーと思いました。「学級」や「班活動」がうまくまとまっていまして、「しっかりとした授業」という感じだったのですが、一方で息苦しさを感じたのも事実です。

前に、ある研究者(=組織活性化の研究をやっている方でした)から「小学校のいじめは、先生の感情(=学級からはみ出す子を疎ましく思う気持ち)を敏感に読みとる児童が行うことがほとんど」という話を聞いたことがあります。根拠はここでは明示できませんが、妙に納得できる話だなーと思ったものでした。


3 ■コメントを控えておりましたが・・
大変興味深いテーマですので、コメントさせて頂くことをお許し下さい。

「自助・共助なくて公助なし」とは、かの石原東京都知事も指摘されておりましたが、私もそのように感じております。
脱線しますが、PTA徴収金には免除規程が適用されにくい(申請しにくい)問題があり、そこを利用する向きがあるので”本末転倒だ”と叫んでおります。

元に戻り・・私は自助・共助は「自らの気付き」によりもたらされるべきものと信じておりますが、現状は「誘導」により官(公務員)の側から求められている、と感じておりました。
「公助」の内容を理解出来ていないのかもしれませんが、「官」の方々には違法スレスレで誘導すする・させること無く、その内容をはっきり示して頂きたいものです。
まったくもって”御意”であります。

この”誘導”が日本の教育手法の特色であるのであれば、多くの法的問題を含んだPTA問題は、文科省や教委の二枚舌による”気が付き難いシステム”の中で発生していることとなります。
これでは本当の意味での公助(新しい公共)は実現しない、ということなのですね。

4 ■Re:小学校の授業参観で感じた違和感
>TRKさん
いじめをめぐる興味深いお話、ありがとうございます。
リンク先の御記事、あらためて読ませていただきました。こちらも、ありがとうございます。

*引用*
「学級の中で他人の目を意識させる教育が、功を奏している」
ことかもしれない?とも思われました。
*****
特にこの部分は、息をのまされましたです。

ちなみに、「日本の学校の濃厚な共同体的な性格」については、柳 治男『<学級>の歴史学 自明視された空間を疑う」でも指摘されていますね。
そのさわりの部分を引用しておきます。

*引用*
 こうして多くの比較研究は、日本の「学級」が欧米の「学級」と比べると、生活共同体的性格をより濃厚に持っているということを示している。逆に欧米の「学級」が、パックツアーや市井の社会教育活動や教育文化事業の学級と同様、機能集団的性格を持つことは明らかである。したがって、「学級」の共同体的性格は、我が国固有の現象とみてもよいだろう。そしてまた、学級共同体言説も、日本固有の現象としてみてもおかしくない。
(p.25)
*****

5 ■Re:コメントを控えておりましたが・・
>PTAのあり方とは・・さん
どもです!

そう言えば、「誘導」は、あり方さんが前々から問題とされてきたポイントですよね。

*引用*
これでは本当の意味での公助(新しい公共)は実現しない、ということなのですね。
*****

おっしゃる通りだと思います。
”背後からの狡い操作”は、やめるべきですよね。

6 ■新しい公共とは・・・
まるおさん、こんにちは、初めて書き込みさせて頂きます。日本の教育がこのような現状とは思いもしませんでした。私も新しい公共は、地域の余計な軋轢を生むだけでは無いかと懸念しています。

すでに、おやじの会 がその様子ですが。
地域の力関係になってしまっていることが良く伺えます。pがダメならおやじの会で勢力を振るう人が増えるだけで、何だか大人のエゴ丸出しで、辟易しています。断じて、地域活性の為、多くの子供の為では無い派閥ができそうです。

行政は学校を絡めたこのような一連の教育?を辞められないのでしょうか。疑問でなりません。

7 ■Re:新しい公共とは・・・
>OTさん
どうもです!

*引用*
行政は学校を絡めたこのような一連の教育?を辞められないのでしょうか。疑問でなりません。
******

おっしゃる通りです。

「生涯学習・社会教育」の中で、PTA活動等の奨励などをしている国は非常に珍しいようです。
多くの国で、生涯学習・社会教育とは、職業教育であったり、社会人が大学で学べるシステムであったりするようですね。
(参考:文部科学省生涯学習政策局調査企画課『諸外国の教育改革の動向 6か国における21世紀の新たな潮流を読む』ぎょうせい、2010)

日本において、国家による国民教導の動きが「やめられない」のは、日本が依然、近代国家の特色である「中性国家」になりえていない証左かもしれませんね。

中性国家:
「真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的立場をとり、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(例えば、教会)乃至は個人の良心に委ね、国家主権の基礎をば、かかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いている」国家。
(丸山眞男「超国家主義の論理と心理」1946)。

8 ■興味深いですね!
まるおさん、今更なコメントで恐縮です。

 実は、ワタクシ、社会に出たとき、もう、こんなマニピュレーションとサヨナラしたのよ!と開放感を味わってしまったのです。製造業の職場って、割り合い、合理的に動いている感じがして、居心地が良かったんですよね。

 PTAは大学卒業以来、久しぶりに、突然この(どの?)私を非コントロール下に置こうとした、というイメージでありました。いきなり後頭部を殴られたみたいで不快でしたね(笑)。


9 ■Re:興味深いですね!
>とまてさん
済みません、非コントロールじゃなくて、被コントロールです。(アメブロのコメントって直せないので難しいです)

10 ■Re:Re:興味深いですね!
>とまてさん
PTAは日本的な組織の「縮図」と言えるように思うのですが、その度外れたところをちゃんと見ていくことも必要ですね。

PTAのきつさを社会一般のきつさの中に解消しようとする向きもあるようですが、そのような考え方に対してとまてさんの体験と考察は貴重な反証になると思います。

>いきなり後頭部を殴られたみたいで不快でしたね(笑)。
わたしも、その不快感は今でも忘れられませんです。
法のコントロールとは別の(国家的)コントロール下に置かれる不快感と言いますかね。

11 ■こんにちは…。

政治の世界も、なんとなく
脱小沢(脱旧体制?)で
動き始めたような…。

PTA問題も、これからは
一部の勢力だけを批判するのではなくて…。

「 日本文化の問題 」として
自分自身と向き合う段階に来ているのかなぁ…、
と思ったりしました。

12 ■この番組見ましたか?
まるおさん、こんばんわ
おりしも日本の道徳観に関する
こんな番組がありました。
http://www.nhk.or.jp/harvard/?from=tp_pc01

議論の大切さを改めて感じた気がします。
本当に、そろそろPTAは変わらなければなりませんよね。私には力不足でしたが、自分の気持には終止符を打てた気がします。

13 ■無題
( この前の補足です )

「 大きな政府 」を目指すのか、
「 小さな政府 」を目指すのか、
という議論は必要ですが…。

「 ムラ社会 」については
一応の結論が出たのかも…です。(?)


( 社会モデルの3分類 )
① ムラ社会 (日本型)   ←「小沢的なもの」
② 小さな政府 (米英型)  ←「みんなの党」とか「自民党(若手)」
③ 大きな政府 (北欧型)  ←「民主党」とか。(?)

14 ■コメント、ありがとうございます(超遅レス<(_ _)>)
超超遅レス、失礼いたしました。

>OTさん
ハーバードの授業の様子はちょっと見ました。
おっしゃる通り、議論の大切さをわたしも改めて感じましたです。
と同時に、PTAをめぐりここ数年たたかわされてきた議論は、なかなかのものだったのではないかとも思いました。
さらに同時に、PTA問題は、アメリカでは「正義」うんぬん以前の問題でもあるよな~とも感じました。

>里山さん
**
PTA問題も、これからは
一部の勢力だけを批判するのではなくて…。

「 日本文化の問題 」として
自分自身と向き合う段階に来ているのかなぁ…、
と思ったりしました。
**

賛成です。
さはさりながら、と同時に、主に昨年度問題提起をした教委や小・中学校には、「その後の展開」を問い合わせても行きたいと思っています。

15 ■東大法学部
正義以前の問題、なのかもしれないですね。
私も日本文化の問題として向き合う姿勢に
賛成です。

東大の安田講堂でのサンデル先生の講義は
公募でしたが、実際は東大法学部が殆どだったと聞いています。彼は有名なコミュニタリアニズム(共同体主義)の代表的論者らしく。NHKが彼にスポットを当てた背景を知りたくなりました。

参加した学生の話では、講義よりも彼の議論テクニックに注目が集まったようで、ある種のショーのように見てしまう自分も居ます。
議論がショー化すると、見る人もその議論に参加しやすいメディア世代が確実に居るきがして、どちらにしても、おかしなコミュニテイーを無くすために議論は必要。そう思っています。

議論テクニックを習得してでも、今のPTAを衰退させたい自分が居ます。

16 ■Re:東大法学部(PTA問題と日本語の特質)
>OTさん
ここのところバタバタしていたもので、超々遅レス、失礼いたしました。

>私も日本文化の問題として向き合う姿勢に
賛成です。

ありがとうございます。
PTA問題にかかわった誰もが感じるのが、「個」(「主体性」)がないがしろにされているという点ではないでしょうか。
で、最近、
「個」というか、「主体性」というか、
そのようなものがないがしろにされるのは、日本語の基本的な性質とも無関係ではないのではないか、と考えるようになりました。
このテーマ、近々展開したいと思っていますので、またご意見をいただければと思います。
(結論的なことを言えば、日本語の「ナル」的性質と日本社会において「個」がないがしろにされることはつながっているように思うのです。)

議論はとっても大切だと思うのですが、相手が聞く耳を持つのか、こちらがどこまで冷静でいられるのか^^;
「個」というものが確立していない社会において、「対話」を行うって、本当に難しいことなのだよな~と、たとえば民主党の代表選時に見られた「言語不通」を目の当たりにし、感じていました。