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2010-12-24 19:03:51

文法的観点から見た「主体」に対する意識の希薄さ ― PTA問題の底流にあるもの(3)

テーマ:エビデンスとしての日本語
(一応、完成)
<中国人の日本語学者を立ちすくませた日本語>

「この説は正しいと言っていいのではなかろうかと思われる。」

この日本語は、(前エントリでもその発言を紹介した)中国人の日本語学者、ポンフェイ氏が来日当初通訳を務めた際に出くわし、”中国語に訳しようがない”と「ぼう然と立ちすくんだ」ものだ(ポンフェイ(2006)『日本人と中国人とのコミュニケーション 「ちょっと」はちょっと… ポンフェイ博士の日本語の不思議』(和泉書院)p.49)。

あらためて提示されると笑ってしまうが、ちょっと改まった場面なら、どこででも目にし、耳にするふつうの日本語だと言うこともできる。

この日本語のどこが中国語(また多くの外国語)に訳しにくいのか。
ポイントは二つある。
一つは、「と言ってもいい」、「のではなかろうか」、「と思われる」と、断定回避の表現が一つならず、三つも重ねて使われている点だ。
そして、もう一つが、「思う」ではなく「思われる」と、いわゆる「自発」の言い方がされている点。
今回は、この「自発」表現をとりあげる。


<「~と思われる」、「~と考えられる」 ―自発表現―>
日本語研究で言う「自発」とは、「自然発生」をつづめたタームで、「自然可能」と言われることもある。
「そうしようと思っていないのに、自然とそのような状態になる」という意味(無意図的実現)を表す。(古典文法の時間に習った記憶がある人も多いと思う。)

わかりやすい例でいえば、

「きのうドラマを見ていたら、不意に泣けてきた。」

というときの、「泣ける」(可能形)が、この「自発」を表している。
ちなみに、「自発」に用いられるのは、助動詞の「れる・られる」(受身・尊敬・可能・自発)と、五段動詞の可能形(可能動詞とも言う)だ。
「考えられる」、「思われる」は前者、「泣ける」、「思える」は後者の例。

(自発の例文)
・今日はなぜか死んだおばあちゃんのことが思い出される。
・あの時のミスが今でも悔やまれてなりません。


「自発」と「可能」の違い
いわゆる「可能」は、

「やっとピアノが弾けるようになった。」

の「弾ける」のように、「そうしよう、そうしたいと思っていたことの実現」を表し、実現に向けての意思・希望があらかじめ存在する点で、それがない「自発」とは区別される。とは言え、「あのコンビのギャグは笑える」のようにどちらとも言い難い場合もある(この部分、尾上圭介 (1998~1999)「文法を考える(5)(6)(7):出来文(1)(2)(3)」『日本語学』17巻7 号、17巻10 号、18巻1号を部分的に参照)。


さて、問題の、「思われる」、「考えられる」である。
これらの表現は、ポン氏が挙げておられる例文からも分かるように、講義や学会発表や会議の場、あるいは論文、レポートといった「慎重なもの言い」を求められる場においてよく用いられると言っていいだろう。

この「思われる」、「考えられる」については、かつて、日本語と中国語のほぼ完璧なバイリンガルである中国語の先生(母語は中国語)から、少し冗談めかして次のように言われたことがある。

***
「考える」ことも、「思う」ことも、人間であればだれでも自由に「できる」ことなのに、日本語では、なぜ『可能』の形をわざわざ付けるのでしょうね?
***

確かに、「英語が話せる」、「ピアノが弾ける」、「よく眠れる」等のごく普通の可能表現を考えてみると、いっぽうにそのことの「実現不能性」があってのものと言うことができそうだ。
先に見たように、「自発」は「可能」とは区別されるが、その区別は絶対的なものではないし、同形であることは確かである。「自発」のための文法形式を持たない言語の使い手が「自発」表現を一種の「可能」表現として理解しようとする姿勢には妥当性が認められると言っていい。


<「場所」としての「私」>
「自発」は、「そうしようと思っていないのに、自然とそのような状態になる」ということ(無意図的実現)を表すと先に述べた。
そうすると、そこでの「主体」(多くの場合「私」)は、行為者としての「能動性・積極性・意思性」を失うことになる。「そうしよう」という意図・意思を持っていないわけなのだから。

このことは、文型の上にも現れていて、通常の文ではガ格(主格)である「思ったり、考えたりする主体」が、自発の文では、二格(場所格・与格)となる。

私【に】は○○××だと思われます/考えられます。

「私」が、ある「考え」を能動的、積極的に導き出す「主体」から、そのような考えが出現する「場所」へと変わっているわけである。
人間が一個の主体、つまり行為者から、「庭【に】花が咲く」の「庭」のような何かが生起する場所と同等のものに近づくわけである。


人間がある考え・ある思いを持つという場合、そこには、その当人【が】主体的にその考え【を】導き出すという主体的・積極的側面と、そのような考え【が】成り行きとしてその当人【に】思い浮かぶという場所的・受動的側面との両面が認められよう。
しかし、その両面のうちの、人間の場所的・受動的側面に積極的に注目する表現(自発表現)は、日本語にはあるのものの、中国語や英語には認められないようなのだ。このことは大変に興味深いことと思われる。


英語等では「私」が主格となるのに日本語では「私」が場所格となる例としては、他に視覚・聴覚を表現する文がある。

英語等では、「I see ~ .」「I hear ~ .」と「私」が主格として現れるが、日本語では、通常、

「(わたしには)星が見える。」
「(わたしには)風の音が聞こえる。」

と、「私」は「場所格」になる。

哲学者の永井均氏は、西田幾多郎の「主体と客体の分かれる以前の『純粋経験』」を解説するに際して、上に見た視覚・聴覚に関わる日本語の表現をとりあげている(永井均(2006)『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』(NHK出版)p.12~13)。
視覚・聴覚に関わる表現との関連で注目すべきは、西田の「我」に関する発言だ。
「場所」と題された論文に、次のような有名な一節がある。

**
すべての経験的知識には「私に意識せられる」ということが伴わねばならぬ、自覚が経験的判断の述語面になるのである。普通には我という如きものも物と同じく、種々なる性質を有つ主語的統一と考えるが、我とは主語的統一ではなくして、述語的統一でなければならぬ、一つの点ではなく一つの円でなければならぬ、物ではなく場所でなければならぬ。(『西田幾多郎哲学論集Ⅰ』岩波文庫、p.141)
**

「我」とは、「主語的統一をもつ物ではなく、場所でなければならぬ」とする部分に留意しておきたい。場所としての「私」、場所格・与格としての「私」に言及したものとして、注目される。
西田は、なにも日本人の特質を論じたわけではなく、人間一般について論じたのであろうが、「私」と「場所」を結び付ける哲学的主張が日本の哲学者から出ていることは注目していいように思う。


<PTAに巻き込まれ開花する「私」>
PTA活動に非常に熱心に関わり、かつ、現在の自動的・強制的な参加体制に対して肯定的な人がいる。その中には、PTAでの活躍が認められ、市の教育委員となり、さらには、日本PTA全国協議会(日P)から「個人表彰」までされている人がいる。

その人の発言で印象に残っているのは、PTA活動をやってみて成長できた自分を強調し、自動的・強制的にPTA会員にさせられたことは、いわば「必要悪」として肯定してしまっていることだ。
「もしも自動的・強制的にPTA会員にされなかったら、自分はPTAに関わることもきっとなかっただろうし、もしもPTAに巻きこまれなかったなら、今の成長した自分もなかった。だから、PTAの自動的・強制的参加体制はこのまま維持されていい。」というようなことをその人は言うのである・・・。


ここに現れている「私」というのは、まさに「場所」としての「私」だと思うのだ。
世界に対して働きかける能動的・主体的な「私」ではなく、そこにおいて「花が咲く」場所としての「私」。

意思と目的を持ち、世界に対して積極的に働きかける能動者・主体としての「私」を意識し、大切にするのなら、その「私」に対して、「選択のための十分な情報を与えたうえで、選択してもらう機会」を与えないことのマイナスは当然に大きく意識されるはずである。
ところが、「場所」としての「わたし」ということになると、話は変わってくる。
「場所」としての「私」とは、外からの影響を受け、そこにおいて何かが花開く存在ということで、インフォームドコンセントなど必要とされない・・・。

憲法に定められた「思想・信条の自由」に抵触するはずの自動加入・強制加入が日本中の学校でまかり通り、どころか、それを肯定・推進する人物が教育委員に選ばれ、全国表彰される。また、優良PTAとして表彰される多くのPTAが自動的・強制的加入体制をとっていることはこれまでも問題にしてきた通りである。
こういう状況の背景には、「私」に対する日本人の無意識的なスタンスが与っているように思われてならない。


主体、能動者としての「私」と、場所、被影響者としての「私」。
この両側面は、すべての人間が持つふたつの側面であろうし、究極的には両者のバランスが大切だということになるのだろうが、われわれは、<主体、能動者としての「私」>というものに対して無頓着にすぎるのではないか?と反省してみる必要があるように思うのだ。

この問題は、いじめの問題ともけっして無関係ではないと思っている。

∞∞∞∞∞∞
次回は、「場所」としての「私」の問題と敬語との関わりをとりあげる予定です。
そして、その次は、神奈川県教委に送付してもらった「文書」(自動加入は、憲法的にも消費者契約法的にも違法ではないとする)をとりあげたいと思っています。

なお、指摘される前に言っておきますが、この記事も、「自発表現」に満ちております^^;