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2011-09-02 01:44:13

日本語的な「視点」を反映する表現①

テーマ:PTAと日本語の中に見られる「二人称性」
<感覚・感情を表す形容詞の人称制限>
学校文法(国文法)では普通とりあげられないが日本語教育の場では必ず問題になる文法事項の一つに、<感覚・感情を表す形容詞に関わる人称制限>の問題がある。

感覚・感情に関わる形容詞というのは、「寒い」「暑い」(感覚)、「うれしい」「悲しい」(感情)の類である。

このような感覚・感情を表す形容詞が述語(断定)として用いられる時、次のように、一人称が主語である場合は問題なく用いられるものの、二人称や三人称が主語になると自然な表現としては成り立ち難くなる。

(1)
(私は)暑い/寒い。
(私は)うれしい/悲しい。

(2)
??あなたは暑い/寒い。
??あなたはうれしい/悲しい。

(3)
??彼は暑い/寒い。
??彼はうれしい/悲しい。

二人称や三人称を主語とした例は日本語としては不自然である。

ところが、このような人称上の制限はどの国の言語にも見られるものではない。
英語をはじめとした欧米の諸語、そして中国語などでも、(2)や(3)に相当する二人称や三人称を主語にした言いかたは問題なく成り立つようなのだ(池上(2004) p.7)。

英語の例を紹介しておく。

(1)’
I am cold/hot.
I am happy/sad.

(2)’
You are cold/hot.
You are happy/sad.

(3)’
He is cold/hot.
He is happy/sad.

(1’)、(2’)、(3’) いずれも自然な表現として成り立つとのことである。

※韓国語では日本語と同様の制限が認められるらしいことが池上(同上)で触れられている。


なぜ、日本語では、二人称や三人称を主語にした例(2)や(3)の例は成り立ち難いのだろうか?

「感覚や感情は個人的なものであり、他人からは容易にうかがい知ることのできないものだから。」という説明が日本語教育の場では通常なされる。
日本語の理解としては「その通り」と言ってよい。

しかし、では、なぜ英語や中国語では二人称や三人称を主語にした(2’)や(3’)の表現が成り立つのだろうか?
何語を母語として話す人であれ、感覚や感情が個人的なものであることに変わりはないはずではないだろうか。


<形容詞の人称制限と日本語的な視点>
ここで問題になってくるのが、前エントリで話題にした「視点」の問題である。
前エントリでは、「あげる」・「くれる」の使い分けを取り上げ、日本語においては「わたし」(一人称)が特別扱いされているのに対して、世界の大部分の言語においては「わたし」(一人称)は他の人称と同列の扱いを受けているということを見た。

それと同じことが、感覚・感情を表す形容詞の用法においても起こっていると言うことができる。
感覚・感情を表す形容詞においても、日本語では一人称が特別扱いされるのに対して、英語や中国語では一人称も他の人称と同列に扱われていると言える。
一人称も他の人称と同列に扱われているということは、「あげる」・「くれる」のところでも触れたように、「わたし」が対象化・客体化されていることを意味する。

英語や中国語の感覚は、日本語で考えてみると、「悲しい」に対する「悲しむ」「悲しがる」、「うれしい」に対する「喜ぶ」「うれしがる」、「暑い」に対する「暑がる」、「寒い」に対する「寒がる」等の動詞表現を想起すると理解しやすくなるように思う。
「悲しむ」「悲しがる」という動詞の場合、それが表わすものは人間一般(もっと言えば存在者一般)の感情と言える。「喜ぶ」、「暑がる」、「寒がる」も同様に「わたし」の感覚・感情ではなく、存在者一般の感覚・感情を表している。

(4)彼はその時とても悲しがっていた。
(5)あなたが悲しんでいる姿を見て、こちらまで悲しくなってきた。

(4),(5)例のように、日本語においても、「悲しむ」「悲しがる」という動詞表現なら二人称・三人称に使える。

英語や中国語では、このような人間一般(存在者一般)に適用しうる表現を全ての人称に同列に適用していると言える。
「わたし」も、人間一般の一存在として突き放して・対象化して扱われているわけある。

※感情・感覚形容詞を「視点」の問題と絡めてする議論は、すでに森田良行氏、池上嘉彦氏によってなされています(森田(1984)、池上(2004))等)。