<234> #4

2012-12-04 22:00:39

日本世間学会 第28回研究大会で発表して(2) 質疑応答篇

テーマ:エビデンスとしての日本語
質疑応答の様子を記録した資料が手に入ると思っていたのですが、私の勘違いでした。記録するのは発表部分のみで、質疑応答部分は記録に残さないことにしているとのこと。これは、日本社会の「実態」をめぐっての率直な意見交換をやりやすくするための処置のようです。
というわけで、以下のやりとりは、私の記憶に頼ってのものになります。
(当日参加された方、何かお気づきの点などありましたらご一報いただければ幸いです。)


発表後、次のような質問や意見をいただきました。

① <司会のS氏から>
英語に関してだが、時代をさかのぼった場合、どういうことが言えるだろうか。
世間学ではヨーロッパにおいては12世紀ころに「世間」から「社会」への変化が見られたという見方をするが、それとの関連で何か言えることがあるか。

<まるおの返答>
古い時代の英語については不案内であるが、『日本語に主語はいらない』で知られる金谷 武洋氏の『英語にも主語はなかった』によると、世間学の主張との興味深い平行性が英語史にあるようである。
というのは、同書によると、英語において主語が明示されるようになったのは12世紀からで、それまでは主語が示されないことが多々あったというのである。もっとも、そこから、金谷氏は日本語との同質性(非スル的性質)を主張されるがその点には共感できない。発表者としては、12世紀以前においても、現在のスペイン語のように、動詞の語形変化により主語が表わされていた点を重く見たい。
とは言え、英語史において、主語・主体をめぐっての大きな変化が12世紀に起きていることは興味深い。


②<Y氏から>
質問ではなく、コメントをしたい。
(2.4.1の例文(3),(4)で)自発が取り上げられているが、確かに、「~と考えられる」のような自発表現は論文を書くときなどに、それを使うことでごまかすというか、責任逃れを行うということがあると思う。
しかし、自発が常にそのような使われ方をするかと言えばそうではなく、抑えても抑えきれない、湧き出てくる「強い思い」の表現として使われることもあるだろう。「私」が思っているのではなく、「もうひとりの『私』」の思いを表しているというか。
(関連して、万葉集の山上憶良の「瓜食めば子ども思ほゆ。栗食めばましてしのばゆ」にも言及)

2.4.2の(7)例についても、(消極的な表現という側面だけではなく)その結婚を運命として、変えようがないものとして受け止める心情、大きな力、大きな背景を感じているという側面もあると思う。

<まるおの返答>
返答を考えていたら次の質問が出されたのでなし。

(現時点でのコメント)
自発表現が「強い思い」を表す場合があるというのは重要な指摘だと思う。いっぽうで、その「強さ」、「大きな力」は、「私」が場所格(「に」格)で表されることから分かるように、能動性、主体性とは別次元のものであることも再確認しておきたい。


② <O氏から>
言っていることに矛盾が感じられる。
2.4では、「自己決定の不在」とか、「『主体性』を秘す私」とか言っているが、いっぽうで、2.6で、「自己中心性」ということが言われている。いったい、「自己」はあるのか、ないのか。
(そもそも、「自己決定の不在」と言うが)自らの経験に照らしても、人と話をする場合、「この人は自分よりも格上なのか格下なのか同等なのか?」といった、その人との上下関係を常に意識し、そうすることで表現を調節している。
(これは、ある意味、自己決定を行っていると言えるのではないか。)
※( )内は、まるおの理解による補足。

<まるおの返答>
自分としては矛盾したことを言っているつもりはない。しかし、「自己中心的性質」という時の「自己」は(欧米式の理解がどうしても入り込んでくるので)、「私」や「自分」と言い換えた方がいいかもしれない。
「私」には二種類あって、(この点については本発表では十分に触れられなかったが)それは、自己密着的な「私」と自己超越的な「私」。
日本語においては、自己超越的な「私」の存在感は薄く、自己密着的な「私」の存在感は強いのだと考えている。
そのように二種類の「私」を考えれば、2.4と2.6は矛盾していることにはならないと考える。2.4でとらえた性質と、2.6でとらえようとした性質が日本語に「同居」していることは間違いのないことだと思っている。
とは言え、この部分が、いまだ未整理・未熟であることは確かだと思う。「自己」等々のタームをきちんととらえなおして整理していきたいと思っている。

なお、インド哲学で言われる『自我』(即自的)と『自己』(対自的)との区別が参考になるのではとの助言がS氏からあった。

(現時点でのコメント)
拙論に限らず、日本語論、日本人論一般において、「自己」とか「私」という言葉をめぐり「混乱」があることは前から気になってはいた。この点をはっきり指摘していただけ、大変勉強になった。

「私」のあり方については大きく二つに分けて考えるべきではと考えている。この問題については、できるだけ近いうちにエントリを立て、整理してみたいと思っている。
あらかじめ、結論的なことを言えば、「私」にはデカルトの言う「私」と、西田幾多郎の言う「私」があるという見通しを持っている。つまり、「主体(主語)としての『私』」と「場所(述語)としての『私』」である。
日本語において存在感が希薄なのは「主体(主語)としての『私』」であり、その存在感が濃厚なのは「場所(述語)としての『私』」のことだと言えるのではないか。
(ちなみに、2.4で取り上げたのが前者の「私」であり、2.6で取り上げたのが後者の「私」である。)


④ <K氏から>
日本語をさかのぼった場合、どのようなことが言えるか?

<まるおの返答>
今回取り上げた現代日本語に認められる性質は、基本的には古代語にも認められるであろう性質だと考えている。しかし、細かい考察は今後の課題である。

今回取り上げた項目で現代語とは明らかに違っているものについて述べておくと ― 、
「あげる」と「くれる」の使い分けについては古代語にはなく、「くれる」が現代語の「あげる」の意味も表わしていた(方言で同様の使われ方がある)ということがある。


なお、休憩時間に、代表幹事のT氏から、語順の同じ蒙古語と比較してみると面白いのではないかとの助言をいただいた。





1 ■中身が濃いですね
まるおさん、学会発表のハンドアウトと、質疑応答のアップありがとうございます!
大変勉強になります。

まるおさんのブログで予習していても、前エントリのハンドアウトは難解(短い言葉に、たくさんの意味が凝縮されている)で、一読してわかったつもりになってはいけない、と思ってコメントは差し控えておりました。
やっと少し腑に落ちたかな~と思っていた矢先の質疑応答のアップです。こちらも、高度なやりとりですね。御発表の理論的整合性を求められたり、見方を広げるヒントを与えられたり。

古代日本語では「あげる」「くれる」の使い分けがなかった、という事実が興味深いです。

では、少し早いですが、よいクリスマスと年越しをお迎えくださいませ!

2 ■Re:中身が濃いですね
>猫紫紺さん
興味を持ってくださり、感謝です。

呑み込みにくいところなどご指摘いただければ幸いです。だいたいそういうところは論の弱点だと思いますので。

世間学会の少し後に、ある所で「日本語の視点」をめぐり話した内容をアップします。
そちらの方もお時間のあるときにお目通しいただければと。

猫紫紺さんも、楽しいクリスマスとよいお年を!

3 ■Re:Re:中身が濃いですね
>まるおさん
>呑み込みにくいところなど
では遠慮なく。

とはもうしても、単純なんです。
わたしが、「世間学」というものをわかっていないため、まるおさんの日本語論と世間学のどこがどのように符合するのか、いまいちつかめなかったのです。
大変お粗末なことで、申し訳ありませんでした。

4 ■Re:Re:Re:中身が濃いですね
>猫紫紺さん

今回口頭発表した内容を自分なりに手直しして、来年末発刊予定の『世間の学』3号に投稿するつもりでいます。その際の参考にさせていただきます。
率直なご意見、ありがとうございます。