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2010-04-06 19:59:33

関係性の中の「わたし」⑥ 敬語(その4) 日本的敬語のもたらす問題性(ⅲ)

テーマ:エビデンスとしての日本語
本日、二投目です。
日本語の敬語の負の側面を問題にしている発言をさらに見ていく。

<価値観の半強制的な押し付けによる息苦しさ>

言語社会心理学を専門とする宇佐美まゆみ氏は、次のように述べている。

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 現代の日本語の敬語は、封建時代の身分制度におけるような、人間の上下の区別によって使い分けられるということはなくなってきました。むしろ、心理的な距離の大小や場面に応じたフォーマリティーを表すものと捉えられています。また、教養を表わすとも捉えられているので、皆、正しく使いこなしたいと考えるようです。しかし、そのメカニズムを研究している者にとっては、敬語というものの根本に、結局は人間の上下という前近代的な価値観があるということを否定できません
 年上の人、より長い経験を尊重するという発想や、他者に対して敬意を払うということ自体を否定するものではありません。しかし、それを、個人的な選択としてではなく、敬語使用の原則として、言語形式、つまり尊敬語などとして表すように、半強制的に押しつけられているということに、不自由さを感じざるを得ません。年上の人や他者に対する敬意は、態度や行動でも十分示せるはずです。それを、少し誇張して言えば、動詞の一つ一つにいちいち敬意を表さなければいけない、果ては、実際には何の敬意も持っていない人に対しても、敬語使用の原則に従って尊敬語を使うなど、言葉の丁寧さが逆に形だけのものになってしまっていることに、抵抗すら感じてしまいます。(太字、引用者)
(『言葉は社会を変えられる』明石書店、1997)
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つぶやき:
横道にそれますが…
「趣旨自体を否定するものではないが、個人的な選択としてではなく、半強制的に押し付けられていることに、不自由さを感じざるを得ない」って、PTAにも当てはまる話ですね!(笑)

いや、笑いごとではないか。

PTAの問題とは、一部の不心得な人たちによってもたらされている災厄というよりも、すぐれて文化の問題だと思うのですよね。
(もちろん、個人の責任を不問にするつもりもないですが。)

話を元に戻して。
宇佐美氏は、同書の中の別のところで、次のようにも述べている。

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(対談中の発言)
個人的には、敬語というものを研究すればするほど、また自由と平等を少なくとも理想としているアメリカ英語を話せば話すほど、日本語では、個人の価値観とは全く無関係に社会が決めた、社会的な地位の上・下などの価値観を半強制的に言語形式でマークさせられているという不自由さを強く感じざるを得なくなります。(太字、引用者)
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田中氏や宇佐美氏のように敬語を突き放してみようとする言語学者、日本語の研究者はむしろ例外中の例外である。
両氏の他に敬語を批判的に見つめた者としては、拙ブログでときどき話題にする哲学者の森有正がいる。
次回(あるいは近いうちに)は、森有正の敬語論を見てみたいと思う。
そこでは、PTA問題と敬語問題がより接近したものになるはず。