<176> #0

2011-04-04 21:49:58

「だから」の情意表出的用法成立の背景(その3) 「論理なき帰結」を語るその他の表現

テーマ:「だから」の情意表出的用法成立の背景
<「論理なき帰結」>
日本語関係はすっかりご無沙汰になってしまっておりましたが、再開したいと思います。どうぞよろしくお願いいたします<(_ _)>。

さて、前エントリの最後のほうで「だから」の情意表出的用法について次のように述べた。

***
根拠の提示を行っていないのに根拠を提示した時に用いる言葉を使って、自らの発言の受け入れを求める。この特異性により、多くの言語においては第四のパターンが存在しないのではないだろうか。
***
※第四のパターンとは、「だから、B」のような表現を指している。

この点につき、もう少し補足させてもらうと、次のようになる。
すなわち―、

「A。だから、B。」という形で、前提を提示したうえで判断・主張を語るという場合、前々エントリで見たように、話者は自らの判断・主張を根拠付けられた、受け入れられてしかるべきものとして相手に提示することになる。ここで注目しておきたいのは、この「だから」の通常の用法における、“受け入れられてしかるべきだ”との気分(「権利としての受け入れ要請意識」)は、「前提-帰結」の関係を構成するという「論理的・対象的側面」に裏打ちされる形で発動していると言える点だ。

それに対して、「だから、B。」といった形をとる「情意表出的用法」にあっては、前提を提示するという論理の構築はなしに「権利としての受け入れ要請意識」が発動している。この、「論理の構築は欠きつつ、それでいながら受け入れを権利として求める」(すなわち、「論理なき帰結」を語る)というところに、「だから」の情意表出的用法の特異性がある。


<同類の表現の存在>
「だから」と同様に、根拠を示し、自らの立場・主張の受け入れを求めるという<話者の姿勢>を含み持つ表現はどの言語にも認められるだろう。しかしながら、「だから」に見られるような<話者の姿勢>の突出はどの言語においても起るわけではない(前々エントリで触れたように韓国・朝鮮語には認められる)。
いっぽうで日本語には、「だから」と同様の「情意の突出と論理の消失」が認められる表現が複数存在する。
「~わけだ」、「~のだ」、「やはり」である。


これらの表現は、「だから」と同様、いっぽうに関係構成的用法をもちつつ、いっぽうに情意表出的用法が存在する(なお、国語辞典や日本語教育で通常取り上げられるのは、「だから」と同じく関係構成的用法のほうである)。


これらの表現の情意表出的用法と思われる例は次のようなものである。

(情意表出的用法)
・「~わけだ」
「これでもわたしはみなさんよりも経験をつんでいるわけで、それでこのような提案をさせてもらっているわけです。」

・「~のだ」
「いいんだよ。これで。」

・「~やはり」
「やはり、こういうことはみんなで話し合うべきではないかと。」


いっぽう、関係構成的用法と言えるのは、次のようなものである。

(関係構成的用法)
・「~わけだ」
出掛けるとき2万円持っていった。帰ってから財布を見たら3千円しか残っていなかった。1万7千円も使ったわけだ。(『中上級を教える人のための 日本語文法ハンドブック』(スリーエーネットワークより))

・「~のだ」
防災設備さえ完備していればこのようなことにならなかった。つまりこの災害は天災ではなく人災だったのだ。(『日本語文型辞典』(くろしお出版)により)

・「~やはり」
(実際に雨が降ってきた)やっぱり、雨が降ってきましたね。
(実際に横綱が勝った)やっぱり、横綱は強いですね。


情意表出的用法においては、関係構成的用法には認められる「先行するもの」(下線を付した)がなくなっていることがお分かりいただけるだろうか。

次のエントリでは、それぞれの表現の両様法について見て行きたいと思います。