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2010-08-08 00:14:34

今日の<フォーラム PTAは新しい公共を切り開けるか>で言いたかったこと(その1)

テーマ:PTAと「新しい公共」
本日会場で言いたくてうずうずしていて(時間の関係で)言えなかったことを書かせてもらいます^^;。
(まずは、総論篇(汗)。)

文科省の前川さんが「初代文部大臣森有礼に始まるトップダウンの教育行政から、これからはボトムアップの教育行政にしていく必要がある。」という話をされました。
「なるほど、コミュニティスクールの背景にはそのような骨太の思想があるのか。」と一応納得いたしました。
しかし、ここで考えなくてはいけないと思うのは、ボトムアップの「ボトム」の単位です。
このボトムが「個人」ではなく「集団」単位になってしまうと、これまでとあまり変わらないという結果になりかねないように思うのです。

実は、森有礼の孫の、森有正(哲学者・仏文学者)は、私の最も敬愛する思想家なのですが、その有正が、日本には「あなたのあなた」、つまり二人称的な存在ばかりがあって、一人称(個人)と三人称(社会・公共)が欠如しているということを述べています(『経験と思想』)。
同じような考えを、例えば『「甘え」の構造』の土居健郎氏も、日本では、集団の力が強く、個人の自由とパブリックの精神が欠如していると述べています(拙ブログでの記事:<集団を超越するものとしての、個人の自由とパブリックの精神>http://ameblo.jp/maruo-jp/entry-10609127057.html)。

日本に「個人の自由がない」というのはまだ分かるが、「社会性や公共性が弱い」というのはどういうこと?と思われる方もいるかもしれませんが、今の大部分のPTAが行っていることを考えてみてください。

入退会の意思の確認もせず半強制的に入会させ、その上役職を強要する。

これは、「個人の自由」の侵害であると同時に、法に基づかぬ不法な行為を犯しているという意味で、反社会的・反公共的なことを行っているわけです。
私は、「その学校のPTAが自動入会と決めたら、その決めごとは新入生の保護者にも適用されます。だから、自動入会のPTAが優良PTAとして表彰されても問題ないと考えます。」と述べた神奈川県教委のPTA担当者のことばは多分一生忘れないと思います^^;。
(拙ブログ記事:<「『自動加入』は人権侵害とは言えない」(By神奈川県教委)※追記あり>http://ameblo.jp/maruo-jp/entry-10494840206.html)

そこには、「集団」の力を過大に評価し、個人の自由と社会的・公共的な決めごと(=法令)を軽んずる日本人的なスタンスが見てとれると思うのですよ。


説明が長くなってしまいましたが、「新しい公共」にあっては、上に見てきたような、「集団」を過度に重んじ、個人の自由と社会的・公共的なルールをないがしろにするようなことはぜひ改めていただきたいと思うのです。
そこが改められなければ、「新しい公共」どころか、かつてたどった「破滅への公共」になりかねないかと・・。

要するに、国が国民の意向に敏感であることは大変に結構なのですが、ぜひお願いしたいのは、「集団」を通して国民の声を吸い上げるという旧来の手法に対してぜひ反省的であってほしいのです。


その点、フォーラム最後のコメントで、文科省の前川さんが、白川郷の「結」の話を例にとられながら、「共同体が先にあって個人がそれに従属するのではなく、これからは、個人の尊厳に基づいて共同体が作られなくてはならない。それこそが『新しい公共』だ。」という話をされ、大変にわが意を得ました。
また、モデレーターであるNHKの早川さんは、最近文科省が始めた熟議カケアイの取材をした時の話をされ、「文科省の官僚が、ある『会』、ある『団体』の代表ではなく、自ら手を挙げ参加したひとりひとりの人の話にあんなに真剣に耳を傾けている姿を自分は初めて見ました。」と話されたのも大変に印象深かったです。
(各論篇につづく。)