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2010-03-16 15:55:49

関係性の中の「わたし」⑥ 敬語(その2) 日英対照研究

テーマ:エビデンスとしての日本語
ペンを借りようとするときの表現のバリエーションについて、日本語と英語の対照を試みた研究がある。

井出祥子他(1986)『日本人とアメリカ人の敬語行動 大学生の場合』南雲堂
(井出祥子(1988)「欧米語の敬語」(『日本語百科大辞典』大修館)も参考になる。)

井出他(1986)は、日米の大学生それぞれ約500人を対象に、日常接する様々な相手に、ペンを借りるときにどのような表現を使うかをアンケート調査し、その結果を分析したものである。

ここではその調査結果を紹介しつつ、日本語の敬語の特質について考えていきたい。


<日英両語におけるバリエーションの存在>
井出他(1986)では、日本語と英語それぞれについて約20の表現を考察の対象とする。そして、それらの表現の「丁寧度」の違いを問題にする。

「丁寧度」は、「最も改まった時」に用いられるものの丁寧度を5、「もっとも気楽な時」に用いられるものの丁寧度を1とする5段階評価によるアンケート調査によって算出される。

日本語における特に丁寧度の高い表現としては、「お借りしてもよろしいでしょうか」「貸していただけませんか」等があり、英語のほうでは、「May I borrow」「Would you mind if I borrow」等がある。
いっぽう、丁寧度が特に低い表現としては、日本語では、「借りるよ」「貸して」「ある」等があり、英語では、「Can I Steal」「Let me borrow」「Gimme」などがあげられる。


<日英両語における違い-表現の相手の問題>

(英語の場合)
「ある表現をどのような相手に使うか」という観点から見た場合、英語にも一定の使い分けは認められる。
すなわち、「Can I Steal」「Let me borrow」「Gimme」等の特に丁寧度の低い表現は、アルバイト仲間や親友や兄弟等の気楽な相手にしか使われないし、逆に、「Would you mind if I borrowed」「Do you mind if I borrow」のような表現は、気の張る相手には使われるが、気楽な相手にはふつう使われないという結果が出ている。

英語にも家族や親友などにしか使えないぶっきらぼうな表現と、逆に、家族や親友にはふつう使われない持って回ったご丁寧な表現があることがわかる。

しかし、ここから単純に、英語にも日本語と同じような「敬語」が存在するのだとするのは、早計である。

確かに、上に見たような部分だけを見ると、英語も日本語も変わらないのではと思いたくなるが(敬語を日本語の特徴とすることを強く否定する研究者もいる(城生佰太郎・松崎寛(1995)『日本語「らしさ」の言語学』講談社)、しかしながら、英語では、「Could I borrow a pen?」「Can I borrow a pen?」「Can I use a pen?」等の丁寧度中位の表現では、もっとも気の張る相手からもっとも気楽な相手までのすべての相手にほぼ均等に使われていることを見逃すべきではないだろう。

さらには、もっとも丁寧度が高いと考えられる「May I borrow」であっても、確かに気の張る相手に比較的使われる傾向は認められるものの、いっぽうで、アルバイト仲間や親友や恋人といった「気楽な相手」にも使われていることも留意される。

以上、英語についてまとめると、特別に丁寧な表現と特別にぞんざいな表現があり、それらは特定の相手にしか使われない傾向があるものの、いっぽうで、 英語にはどのような相手にも使いうる「中立的」(ニュートラル)な表現が存在するということになる。


(日本語の場合)
ところが、日本語には誰に対しても用いることができる「中立的」(ニュートラル)な表現というものは存在しない。

日本語では、「May I borrow」に対応する丁寧度が最上の「お借りしてもよろしいでしょうか」は、あくまでも目上や初対面等の気の張る相手にしか用いられず、家族や親友に使うことなどあり得ないし、また、「Could I borrow a pen?」「Can I borrow a pen?」「Can I use a pen?」等のように誰に対しても使える表現というものは、存在しない。

それは、日本語には尊敬語・謙譲語・丁寧語等のいわゆる「敬語」が存在し、敬語を付加すると目上やソトの人にしか使えず、敬語抜きの表現は目下や同等の相手にしか用いえないというように、敬語の有無による截然たる区別があるからであると考えられる。


英語には誰に対しても用いられる表現があるのに対して、日本語は、常に特定のだれかに向けた表現しかない

このことは、森有正と伊丹十三くらいしか問題にしてこなかったと思うのだが、このことの意味はどんなに強調してもしすぎることはないように思っている。