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2010-06-29 20:09:10

中根千枝氏の「タテ社会論」について(1) 「資格」と「場」

テーマ:日本人論
前回、前々回のエントリでは、中根千枝氏の「恩」をめぐる考察(『適応の条件』)を整理、紹介してきた。
中根氏の議論を追うことで、日本における「恩」というもののあり方についての理解が深まるいっぽうで、「日本社会における機能的人間関係の核はつねに一対一の関係である」とまでどうして言えるのか?、はたまた、中根氏が「恩」、「一対一の関係」と深くかかわるとするタテ社会とは、そもそもどのような社会構造を表すものなのか?
こういった点が問題として意識されてきた。

ところで、皆さまは、カースト制度をもつインドの社会は、「タテ社会」だと思われますか。「ヨコ社会」だと思われますか。正解は、「ヨコ社会」です(!?)。

そこで、これから何回かに分けて、中根氏の「タテ社会論」について紹介していきたいと思う。


<「資格」と「場」>
まず、中根氏の「タテ社会論」にとってのベースとも言うべき、「資格」と「場」という概念について見ておこう。

氏は、社会集団を構成する要因として、二つの異なる原理が指摘できるとする。それが、「資格」と「場」である。
集団には、「資格の共通性」によって構成されるものと、「場の共有」によって構成されるものがあるというわけである。

なお、ここで言う「資格」とは、「普通使われている意味より、ずっと広く、社会的個人の一定の属性(原文は傍点。以下同じ)をあらわすものである。」
つまり、学歴・地位・職業をはじめ、性(男・女)も年齢(老・若)等も、ここで言う「資格」なのである。
(「個人的属性」とでも呼んだほうが分かりやすいかもしれない。)

これらの属性による基準のいずれかを使って集団が構成された場合、その集団は、「資格による集団」ということになる。
特定の職業集団や一定の父系血縁集団、一つのカースト集団などが「資格による集団」の例である。

いっぽう、「場による集団」とは、一定の地域や所属機関などのように、資格の相違、つまり個人的な属性の違いを問わずに、一定の「枠」によって集団が構成される場合を指す。

たとえば、××村の成員というのは「場による集団」である。
会社でいえば、技術者、事務職員、経営者というのは、それぞれ資格をあらわすが、○○会社の社員というのは、場による設定である。
大学を例にとると、教員・職員・学生というのは、それぞれ資格であり、××大学の者というのは場による位置づけである。

(まるお注)
もちろん、この二つ(「場による集団」と「資格による集団」)は二者択一的なものではない。
○○市税理士会というものがあった場合、その集団は、○○市という場の共有によって出来ているという側面と、税理士という資格の共通性によって出来ているという両方の側面を持っている。
全国税理士会になると、「資格の共通性」という側面が強くなるが、それとて日本という「場の共有」の側面が依然として残るわけである。

じゃあ、「単P」はどうでしょうか(笑)? これは、まず、たとえば「OO小学校」という「場」(枠)の中で成立している集団であること。そして、その中に、教職員と保護者という歴然と資格の違うものが入っている(しかも、教職員の中はさらに管理職、教員、職員と資格の違うものを含み、保護者のほうもまさにさまざまな資格(個人的属性)を持つものが含まれている)わけで、「『場』による集団」の性格を極めて濃厚にもつ集団といっていいように思うのだ。


<「場」の日本と「資格」のインド>
さて、中根は、社会によって資格と場のいずれかの機能を優先したり、両者がたがいに匹敵する機能を持っている場合があるといい、資格と場がどのようなバランスの下で集団を構成しているかによって、社会の構造を端的に考察できるとする。
そして、集団構成において資格と場の果たしている役割という観点から見たとき、極端な対照を示しているのは、日本とインドの社会だという。

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 すなわち、日本人の集団意識は非常に場におかれており、インドでは反対に資格(最も象徴的にあらわれているのはカースト-基本的に職業・身分における社会集団-である)におかれいている。(中略)社会人類学の構造分析のフィールドとして、日本とインドほど理論的アンチテーゼを示す社会の例は、ちょっと世界中にないように思われる。この意味では中国やヨーロッパの諸社会などは、いずれも、これほど極端なものではなく、その中間(どちらかといえば、インドよりの)に位するように思われる。
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インドがヨコ社会(のちに触れる)と結び付けられる資格が強く意識される社会の極とされていること、日本は「場」を強調するという点では一方の極にある社会と位置付けられていること、中国やヨーロッパの諸社会はその中間とされつつも、インド寄りとされている点に注目しておきたい。


中根の理論は、集団意識が強く場におかれる日本社会は「タテ社会」となると展開していくのであるが、その点を見る前に、日本社会が場を強調する社会であることの、エビデンスを確認しておきたい。