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2011-05-22 21:09:18

「だから」の情意表出的用法成立の背景(その6) 論理なき帰結を語る「やはり」

テーマ:「だから」の情意表出的用法成立の背景

(1)「やっぱり、こういうことはそうすぐには変えられませんのでね。」

(2)「わたし、やっぱり、やめておきます。」

日常会話では、上の例のような、「なにが『やはり』なのですか?」と思はず問い返したくなる「やはり」が非常にしばしば使われている。
このような「やはり」については、これまで、(日本語プロパーよりも)筒井康隆、森本哲郎、山崎正和といった作家や文化人によって日本文化や日本人の特質との関わりが意識されつつ論じられてきた(加藤(1999))。

いっぽうで「やはり」には、次のように、おそらくどのような言語であれ存在すると思われる用法もある。

(3)(実際に雨が降ってきて)
「やはり、降ってきましたね。」(≒「思った通り」)

(4)(実際に横綱が勝って)
「やはり、横綱は強いですね。」(≒「確かに」)

(3)の「やはり」は「思った通り」に、(4)の「やはり」は「確かに」に置き換えることが可能である。
これらの例には「なにが『やはり』なのですか?」といった疑問は生じえない。それは、(3)例においては「実際に雨が降ってきたこと」、(4)例においては「実際に横綱が勝ったこと」が「やはり」使用の前提となっているからだ。


ところで、(1)(2)のような「やはり」であれ、(3)(4)のような「やはり」であれ、「やはり」が用いられる場合は、あらかじめ話者の中にあった「思い」が発話時において改めて”その通り”と承認される心的プロセス(「回帰的承認感情」)が認められる(加藤(2005))。
ここで言う「話者の中にあらかじめある『思い』」を確認しておくと、(1)では「こういうことはすぐには変えられない」、(2)では「やめておこう」、(3)では「降ってくるのではないか」、(4)では「横綱は強い」である。

そして、あらかじめある「思い」が”その通り”と承認される時に、現実による裏書きがあるのが(3)(4)の「やはり」であり、そのような現実による裏書きがないのが(1)(2)の「やはり」である。
前者(3,4)は現実を踏まえ、それを拠り所とした承認がなされているという意味で論理構成的用法、後者(1,2)はそのような拠り所を踏まえるというプロセス抜きに承認が行われているという意味で情意表出的用法と言える。

図式的に示せば、以下のようである。

論理構成的用法((3)(4))
現実による裏書き⇒「やはり、回帰的承認。」

情意表出的用法((1)(2))
現実による裏書き⇒「やはり、回帰的承認。」


「やはり」における前提(「現実による裏書き」)は、「だから」、「わけ」「のだ」の前提と違って、命題の形で現れることはない。
その点で、「やはり」は「だから」等とは一線を引くべきであるが、提示される判断・認識の拠り所が消失した用法を持つという点で、一連の現象として注目したい。
※「命題」ということばを、ここではごく常識的な意味(=「判断の内容を言語で表したもの」)で用いている。


以上、「論理なき帰結」を表す用法が「やはり」にも認められることを見た。


文献
加藤薫(1999)「『やはり』論の問題点 ―その対立する論点の整理と展望―」『日本語研究と日本語教育』(明治書院)
加藤薫(2005)「『やはり』の表現的機能 ―<「正1-反-正2構造」がもたらすもの>―」『日本語文法学会 第6回大会発表予稿集』